4.河井継之助記念館(2階) | QR Translator



4.河井継之助記念館(2階)


はるかに青山あり 人材と文武と富国

「人の世を生きるということは、苦しいことも、うれしいこともいろいろあるものだ。その苦しいことというものにたえなければ、忠義だの国の政治だのといったところで、何も為しとげられないものだ。」(久敬舎で仲間だった刈谷無隠に)
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幼年のころ
「こどものころは、ずいぶんワンパクでした。しかし、どんないたずらをしても、それを隠し立てするようなことはありませんでした。」(妹・安子の述懐)

崇徳館に学ぶ
藩校崇徳館に通い、高野松陰・山田愛之助らに学びました。
馬術は、駆けることと、止まることさえできれば足りる。きまりきった作法などは、必要ない。」(馬に乗る訓練のときに)

陽明学を学ぶ
高野松陰の影響を受けて陽明学を学び、一七歳で政治の道に志を立て、国を豊かにする人物になると誓いました。

久敬舎に学ぶ
二十六才で江戸に遊学し、古賀茶溪の久敬舎に学び、宋の名臣・李忠定の書物を写すことに没頭しました。後に佐久間象山の塾にも学びました。
おもしろいということだけで、本を読むのであれば、本を読まずに、芝居か寄席へでもいくがよい。」(久敬舎で仲間だった刈谷無隠に)

建言をする
ペリー来航にあたり、藩主に建言書を提出しました。その内容は、富国強兵策でとても過激でしたが、要点をするどくついていました。そして、評定方随役に異例の抜擢をされますが、国元の重役の抵抗で、意見が藩政に反映されず、まもなく辞職してしまいました。

宮路騒動をしずめる
三十二歳のときに、それまで役人が何度となく解決を試み、失敗を重ねていた宮路騒動(長岡藩の宮路村で起こった騒動)を解決しました。このあと、継之助は再び遊学に旅立ちます。


西国遊歴の旅

安政五年(1858)の暮れ。継之助はふたたび遊学に旅立ちます。行き先は江戸にとどまらず、西国まで足を延ばしました。目的は備中松山の山田方谷(ほうこく)に、改革の方法を学ぶことにありました。その見聞を九州・山陰まで広めました。ここで紹介するのは、継之助の旅先での心象をこと細かに記録した旅日記です。
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藩政改革

改革は、山田方谷の教えをもとに、実行されました。勘定所などの機構改革が、利益を生むことになりました。産業の振興や、文武の奨励などは、新しい時代を先取りするものでした。その改革は、「公なれば人怨まず、明らかなれば人欺かず」を基本とした今でいうデモクラシーの思想に根ざしたものといえましょう。
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◎軍制改革と禄高改革を行う
洋式の軍制を導入し、藩士の役割を大きく変えました。これは封建制を否定する意味をもっています。継之助は、この機会を逃さず、藩士の禄高を百石に平準化しました。上を削り下を増やすという、当時としては画期的な改革であり、継之助はこれによって人心の一致をはかりました。

◎賄賂の慣習をやめさせる
「兄は賄賂と申すものは大嫌いで、いろんなものを持ってくるものがいますと、取り次ぎもさせないで、跳ね返しました。このように対応を厳重にやっていましたので、軍奉行になって三、四年も経たないうちに、藩の軍用金も出来て目に余るような行いをする者もいなくなりました。」
(妹・安子の話)

◎贅沢を一掃する
割元庄屋(大庄屋)らに対し、豆腐のから汁と大根の煮付の粗食で接待しました。「各々方は、日ごろから滋味に飽いていると思えるので、本日は我が家の料理を馳走する。遠慮なく召し上がれ」と皮肉をこめていいました。

◎免税制度の不正をやめさせる
水害による免税制度を、役人と豪農が一緒になって、悪用していました。不正の噂のある代官・元締をやめさせ、あらためて役人を派遣して調査を行い、正しく課税をしたら、年間六千俵の増収を得ました。

◎河税を廃止する
長岡城下の一部の商人たちが、信濃川舟運の特権を持っていました。商品は河税を長岡藩に支払うことによって、利益を独占していました。継之助は「河川は共有すべきもの」と主張し、河税を廃止して、交通の利便を開いています。このことにより、産業の振興が推進されました。

◎造士寮を創設する
教育の充実が、改革をすすめるもとになると考えた継之助は、寄宿舎制を取り入れた造士寮を創設します。寮長には、酒井貞蔵をあて青少年に教養を学ばせました。この造士寮は北越戊辰戦争後、国漢学校、長岡洋学校などに引き継がれます。

◎賭博を禁止する
もともと禁止されていた賭博が、いつのまにか公然と行われるようになり、悪い影響を受ける者がいました。継之助は、「旅の賭博打ち」に変装して藩内を見回り、これを禁止させました。

◎遊郭を廃止する
継之助が、遊郭を廃止したため、つぎのような歌がはやりました。
「河井河井(可愛い可愛い)と今朝までおもい今は愛想も継(尽き)之助」
しかし、そこに働く者の生活が困らないような配慮をおこたりませんでした。


小千谷談判と明治維新

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ときに慶応四年(1868)五月二日。小千谷の慈眼寺。
長岡藩家老・河井継之助。次室に控える軍目付の二見虎三郎。対するは西軍の東山道先鋒総督府軍軍監岩村精一郎。薩摩藩外城隊長淵辺直右衛門。長州藩奇兵隊長の杉山荘一郎と白井小助。
この談判が、長岡藩と継之助、そして北越戊辰戦争の運命を左右することになります。
談判は、あいさつから決裂まで約三十分。河井継之助の歎願と会津藩追討の理由を問いただすことばに終始しました。継之助は、持参した嘆願書を差し出し、その趣旨を説こうとしましたが、岩村らは耳を貸そうとしないどころか、嘆願書を読もうともしませんでした。その嘆願書にこそ、継之助の真の願いがこめられていました。


長岡城奪還の成功の影に

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長岡城は慶応四年(1868)五月十九日早朝、西軍の信濃川強行渡河戦で落城してしまいます。
それから二か月。長岡藩兵は長岡城奪還のための戦いを続けました。そして、七月二十四日夜半から、八町沖を強行渡河し長岡城を目指す作戦を決行します。

日本の近代戦史上、長岡城の奪還戦は特筆できるものといえるでしょう。西軍は長岡城付近に約二万名の兵士を布陣していました。対する長岡・会津・米沢藩などの東軍は約八千名。各地を転戦しながら城を奪還する機会をうかがう長岡藩は、七百名足らずの少勢で城下に突入するという思い切った作戦を立てます。河井継之助の指揮のもと、用意周到に準備された奇襲作戦でした。出陣を前に継之助は、口上書を藩兵に読み聞かせ「なぜ、城を奪還するのか」を説いています。当時ではめずらしく、口語文で書かれた口上書でした。作戦は、城下の東北にある八町沖を渡るという大胆なものでした。八町沖は巨大な蛇がすむといわれ、迷えば出ることのできない沼地として恐れられていました。暗闇の中、あらかじめつけておいた進路を、全軍が四隊に分かれて長蛇の列となり、息をひそめての進軍となりました。

午前四時、集結した各隊は一気に西軍陣地に突入しました。不意打ちに驚愕した西軍兵士は先を争って逃げ、敗走していきました。こうして藩兵一人ひとりに役割を与え、結果を出させるという継之助の際立った采配によって、長岡城の奪還は成功しました。

上陸後の戦闘によって継之助が負傷したことにより、長岡藩兵の士気は衰え、再び長岡城は落城してしまいます。

しかし、西軍参謀山県狂介(有朋)らの肝を冷やすこととなりました。
この奪還戦は、城下の町民らの盆踊りなどで歓迎され、その後の長岡の歴史に大きな勇気を与え続けています。


八十里越

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越後と会津を結ぶ最も険しい道を八十里越といいます。八里(約三十二キロメートル)の道のりでしたが、一理(約四キロメートル)が十里にも思えることから、八十里越と呼ばれました。この難所を越えた長岡藩兵とその家族は、千六百人以上いたといわれています。継之助も特製の担架に乗って、越えて行きました。

〈福島県只見町 河井継之助記念館 終焉の間〉
福島県只見町塩沢の河井継之助記念館は、昭和四十一年(1966)に開館し、平成五年(1993)に改装されています。
この写真は継之助が塩沢で最期を迎えた部屋で、記念館に当時のまま保存されています。
●所在地 福島県南会津郡只見町塩沢字上の台850-5(電話0241-82-2870)

(継之助終焉の地はダム湖により水没)