3.河井継之助記念館(1階) | QR Translator



3.河井継之助記念館(1階)


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河井継之助記念館へようこそ

当館は、河井継之助の人間像を紹介するために、長岡市制百周年を記念して設立されました。
米百俵で知られるように、長岡は、明治維新以来、多くの人材を世に送り出してきました。彼らの多くの胸中にあって、苦境を乗り越える力を与え続けてきたのが、河井継之助だといわれています。
継之助は、「弱きを助け、強きをくじく」人情の人であり、因習や偏見にとらわれない自由の人でした。さまざまな改革を行って一人ひとりが、個性と能力を発揮する豊かな社会を実現しようとしました。
「人間というものは、地下百尺の底の心(土の中に埋められてからの真の心)でなければ、何の役にも立たない」と、継之助はいいました。
限られた資料による展示ではありますが、しばし時空を超えて、継之助の「真の心」と、対話するひとときをお過ごしください。(河井継之助記念館展示運営委員会)


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ガトリング砲

アメリカのR・J・ガトリング(1818-1903)が、南北戦争時の1862年に発明した手動機関銃です。中心軸の周りに数本の銃身をつけ、後ろ脇にあるハンドルを回すと、一対の傘歯車を介して銃身が回転します。弾倉から各銃身内に弾丸が装填され、一回転するうちに撃発(銃を打つ)・排莢(薬莢を排出)が繰り返されます。一分間に二百から三百発の連射が可能です。
慶応四年(1868)二月、河井継之助は横浜の貿易商ファーブル・ブラントから一門(一台)三千両で二門(二台)購入し、五月十九日の長岡城の落城の際、大手門前でみずから速射しました。これはわが国ではじめてのガトリング砲の使用です。



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河井継之助ゆかりの庭

この庭は、継之助が暮らしていたころのおもかげを今に伝えています。庭には松の大樹が二本ありました。枝を張り、天に昇るような形を見せていましたから、継之助の号(本名とは別に使用する名称)・蒼龍窟(そうりゅうくつ)の由来になったともいわれています。昭和三十一年(1956)に撮影したこちらの写真には、この松が写っています。その後、大風などによって失われてしまいました。
興味深いことは、この地に僧良寛が訪ねてきたことでしょう。継之助の父・代右衛門には聴松庵という号があります。「良寛全集」にある漢詩を、ご紹介します。
良寛が亡くなったのは天保二年(1831)、継之助が五歳のときでした。





常在戦場と河井継之助

長岡は、七万四千余石の城下町でした。
元和四年(一六一八)、三河国牛久保(愛知県豊川市牛久保町)の牧野氏が譜代大名として入封し、戦国三河で培われた常在戦場の精神が、長岡藩風となりました。初代藩主牧野忠成は、苧引形兜城(外観が兜の鉢金と錣の形に似ていた)と呼ばれる長岡城を完成させ、以来、幕末まで十二代にわたり、安定した治世が続きました。
長岡に、蒼龍窟河井継之助は誕生しました。ここ生家跡に、記念館は建っています。


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